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難波田春夫(1938)「新しき経済の理念」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1566487/1/13

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 難波田春夫、31歳、東京帝大助手時代に雑誌『新日本』(1巻8号、1938年8月)に寄稿した小論である。この『新日本』は、当時の文壇の国家主義を推進した「文芸懇話会」(1934年3月発足)を受け継いだ、「新日本文化の会」(1937年7月発足)が出版した雑誌だ。本誌の目次を見ると、萩原朔太郎、倉田百三、佐藤春夫、斎藤茂吉、保田與重郎、与謝野晶子など、日本文学界の錚々たる名前が並んでいる。難波田はこの後も『新日本』に複数回寄稿し、座談会にも出席しており、学術の世界だけでなく文学界にもその名を知られていた。

 出版当時の時代状況は、1931年に満州事変が勃発し、1935年から国体明徴運動(日本は天皇が統治しているという思想の拡散運動)が広がっていた。『新日本』もその流れのなかで発刊された。そして、本誌の前年の37年には文部省により『国体の本義』が3月に出版され、7月には盧溝橋事件で日中戦争が開始、翌38年4月には「国家総動員法」が公布されていた。難波田自身は、この年2月に『国家と経済 第一巻序説』、7月に『国家と経済 第二巻 古典に於ける国家と経済』を日本評論社から立て続けに出版し、世間がその名前に注目し始めていた。

『新日本』1938年8月号目次

 本稿は、このように戦前の『国家と経済』の第一巻と第二巻の直後に発表され、また翌39年に出版される第三巻(副題「我が国の古典に於ける国家と経済」)との間に位置する。そのため、非常に短い文章ではあるが、それまでの主張の要点が簡潔に述べられているという点で、難波田の初期の思想を把握するのに便利な記事である。

 そのポイントは、当時の自由主義的経済学とマルクス主義的経済学の双方を批判し、日本独自の経済学の必要性を明らかにしている点だ。難波田は、自由主義とマルクス主義の双方の経済学が、ともに「経済の必然性(自律性)」を解明できると考えていることを批判する。

 近代化以降、たしかに自由主義的経済学が説明するように経済は発展してきたが、同時に矛盾も深めてきた。その意味で現代の経済は危機である。しかし、現代の経済は、マルクス主義のいうようにただ必然的に崩壊し、新しい社会に移行するのではない。経済のありかたが変わるには、経済の必然を変容させうる国家の理念、すなわち「民族精神、具体的には日本精神」が必要だ(p.21)。計画経済は経済発展を抑圧する。したがって、「極端な自由経済」も「極端な計画経済」もともに問題があるとするならば、新しい経済は「適度な統制経済に向かはねばならない」(p.21)。

 以上が本稿の要旨である。その後、難波田は『国家と経済 第四巻 日本経済構造の原理的考察』(1941年)で、独自の日本経済学すなわち「家・郷土・国体」という国民共同体に基づく「国民経済三重構造論」を展開する。しかし、それ以前に難波田がここで「適度な統制経済」を主張している点が注目される。この「統制の範囲」(国家の介入の範囲)をどの程度まで許容するかという点が、その後、時代の変化とともに問題となる。そして、難波田のこの統制経済論に対する態度が、本誌から数年後の、大熊信行との論争や軍部の思想との違いとして表面化してゆく。

文責:廣重剛史