国家と経済・第2巻


難波田春夫(1938)「古典における国家と経済」『国家と経済』第2巻(日本評論社)。

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難波田春夫の戦前の著作のひとつ、『国家と経済』第2巻を取り上げる。この第2巻は、経済学を反省的に振り返るための序説的な神話論だという位置づけであり、本格的な神話論は第3巻で展開される。なお、本稿は体系的な紹介でもなく、ましてや本格的な研究論考でもない。筆者の関心のままに選択的に取り上げた、何らの理念的一貫性もない、雑記的ノートに過ぎない。

まずは、戦前のこの難波田神話論と、戦後の公職追放中の難波田の研究成果との間の、明瞭な差異に留意しておきたい。戦後すぐの研究は、主に『経済学研究所研究叢書』に発表されていったが、そこにはすぐれてヘーゲル的要素がみられた。ところが、戦前の著作の場合、ヘーゲル的要素はみられない。難波田の研究の核となるのは、どこまでも神話論である。

難波田の戦前の神話論はどのように読まれるべきだろうか。難波田の研究全体におけるその位置づけについて考えていくには、戦後のヘーゲル的要素との差異について考えて行くべきではないか。なぜか。それは、のちの難波田の相互律論への展開の道筋を考えるにあたって、相当に有益であると考えられるからだ。日本の神話からヘーゲル的共同体論そして相互律論へと、難波田の研究は歩みを続けていくのだが、普遍的原理的方向へと進みゆくこの研究の遍歴については、田村正勝による本格的な解説を参照されたい(『ニューリーダー』「難波田春夫先生を偲ぶ」平成3年10月号)。

難波田は、科学の知と神話の知の関係を問題化し、神話の知を浅薄な先科学の知として蔑むような科学の知の、その問題性を抉り出そうとしている。巨大な破壊を世界にもたらしてきた近代合理主義の問題性である。難波田は、神話の知こそ、いま見直されねばならない知のあり方なのだという。以下、難波田の神話についての概説を確認しておこう。

「神話を愛するものも、ある意味では智を愛するものであると、アリストテレスはいっている。周知のごとく科学の最初の完成者であったこの人すらも、神話と智、したがって科学とを、ある意味では同じであるとしなければならなかったのである。 だが、それにしても神話と科学とは、どのような意味においてであれば同一となるので あろうか。一般的にいって、神話と科学との間には、どのような関係があるのであろうか。

 まず第一に、神話と科学との間の関係づけは、通常後者をもって前者の発展、進化せるものとすることによってなされている。神話的思惟の発展が科学になるというのである。いまこの考えを、オーギュスト・コントの三段階説によって述べるならば、総じて人間思惟は理論的に異なる三つの状態、すなわち神学的または擬制的状態、形而上学的または抽象的状態、科学的または実証的状態を、順次に経過する。 いいかえれば、人間精神はその性質上、まず神学的方法、次に形而上学的方法、最後に実証的方 法という「本質的に異なる、いな、根本的に相反する特質を有する三つの哲学的方法」を、順次 に使用するのである。 そうして彼によれば、 第一の状態は「人間知力の必然的な出発点」であ り、第三の状態は「それの固定的にしてかつ確定的な段階」、第二の状態はこれら両者の間の「過 度の役割を演ずる」という。

 いま、われわれにおける「神話」および「科学」が、それぞれコントにおける第一の状態と第 三の状態とに属することが、大体において承認せられるものとするならば、「科学」が「神話」 から発展し来たったものであることは、認められねばならない。そうしてこのことは、ただにコントの主張であるのみならず、最もよく常識と合致したところのものであろう。

 だがしかし、コントの主張のなかには、「科学」が「形而上学」を通じて「神話」に連続して いるということの他に、これらの三つが「本質的に異なる、いな、根本的に相反する特質を有す る」ものであるということが含まれている。いいかえれば、「科学」も「神話」も、人間思惟の 発現である点においては相連続していても、そのような思惟であるかという点では「根本的に相 反する」と考えられねばならぬ、すなわち、「科学」は「神話」と、「根本的に相反する」とい う仕方において相連続しているのである。そうしてこのような考え方もまた、コントだけのもの ではなく、現代の常識であるということができる。「合理主義」をもって第一の特徴とする現代 は、一般に「神話」的思惟をもって、先科学的、いな、反科学的と刻印するのである。現代は何 よりもまず「科学的」であり、したがって「反神話的」である。

 かくのごとくにして、「神話」と「科学」との間の関係が、もし現代の常識がそう考えている ように、「根本的に相反する」という仕方においての連続であるならば、最初に掲げた「神話を 愛するものも、ある意味では智を愛するものである」というアリストテレスの言葉は、甚だ浅薄 な意味のものでしかあり得ないわけである。両者の等しと置かれる場合がありとするならば、そ れはただその何れもが、たとえ根本的に相反するものであろうと、なおともに思惟形式であるということにおいてであっても、さらに一歩考えを進め、それがどのような思惟形式であるかを問題にするならば、もはや両者は似ても似つかぬ、むしろ根本的に相反するものとせられねばならない。かくして近代的合理主義の立場に立つかぎり、神話を愛するものはむしろ科学を愛せざるもの、反科学的なるものと規定せざるをえないのである。

 いま、現代における思想的危機を、十分なる根拠において神話と科学との争いと規定するならば、以上見来たったごとき結論が正当であるかぎり、この危機を克服する途は、いうまでもなく、再生しようとする原始的な、野蛮な、少なくとも幼稚な神話を、科学に反する敵として、打ち斥けること以外にありえないわけである。だが、現代における神話の再生は、全く偶然的に、何らの必然的な理由もなしに生じたものであろうか。そうは思われない。科学の時代のただ中に神話が厳然たる事実として再生しつつあるということは、必ず科学に何らかの欠陥があること、そうして反科学的な神話に、この欠陥をみたすだけのものがあることを思わしめるに十分である。」

こうして、科学の知に対抗し、また科学の知の問題を克服しうるような、神話の知の再生が、30代の若き俊英が昭和30年代の暗黒の激動時代に取り組もうとしたきわめて実践的な研究プロジェクトなのであった。

もちろん、その神話の知が、無条件で素晴らしいものであるはずもない。戦前の難波田神話論には、ファシズム期日本の反西洋、反リベラリズム的スタンスを見て取ることができる。その思想的スタンスは、民族の本質的共同性に基礎づけられる。難波田による民族の理解にあっては、支配・被支配関係も、内戦も存在しない。どちらも歴史的に普遍的な現象であるにもかかわらず、今回取り上げる『国家と経済』第2巻では、まさに封殺されている。

こうしたピュアで平和な民族理解は、敗戦後も変わらない。難波田春夫は、民族の無謬性という情念的想いを捨て去ることができない。捨て去るどころか、むしろそこから普遍的原理を取り出し、より高次の理念を見出そうとしていく。たんなる空虚なイデオロギー的理想論であるようにみえて、実はこの民族なる存在者は、社会存在論的討究を突き進んで行くための本質的概念装置として機能しているのである。難波田の研究の魅力の一端をまさにここに指摘できるだろう。

やがて概念把握されることになるその高次の理念なるものが、後期難波田の思考の核となる相互律なのであるが、しかしそこには、民族なる存在の本質的共同性とはまったくもって異質な発想がみられる。民族の絶対性という情意的想いは、相互律の世界にあっては、相対化されざるをえない。日本民族の理念的絶対性は、特定存在者の特権的存在性を強調しているという意味において、悟性的認識に拠るものであると言わねばならない。そうである以上、民族なる存在者のその存在は、相互律の理念からはその絶対性が否定されなければならない。

けれども、戦前の『国家と経済』第2巻における神話論を検討していくと、その神話論には、そうシンプルには否定されえない思想的強靱性がみられる。そしてまさにその神話論こそが、民族なる存在者のその絶対性の根拠として、突き詰められているのである。

したがって、こう考えてみるべきであろう。難波田の思想的発展過程を展望していくにあたって、相互律的世界観と神話的世界観との鋭い緊張関係をあらためて討究していくことは、難波田の学問全体のポテンシャルを鋭く抉り出していくことにも帰結するはずだ、と。ここでその詳細を論究することはできないが、『国家と経済』第2巻を以下紹介していく中で、こうした難波田研究の方向性を示唆しておきたい。

『国家と経済』第2巻において展開された神話論について、その基本的特徴を整理しておこう。難波田は、神話なるものに重要な知のあり方を見出す。実証史学からすれば何とも馬鹿らしいかぎりの神話の記述に、深甚なる共同体の知を探り当てようとする。この第2巻は後の第3巻の準備作業に過ぎないのではあるが、難波田が共同体知構築のために選択した孔子とプラトンのテキストへの、難波田自身による神話論的問題構成に基づくその読みは、戦前の難波田神話論の、その現代的可能性すら検討したくなる射程を有するものであるように思われてならない。

難波田による神話論的孔子論およびプラトン論は、哲人による統治の要請という共同体知の必然的帰着点を読者に確認させる構成を有する。いうまでもなく、現実に人びとが共同生活を送っていく上で、哲人による統治なる実態の非現実性はあきらかである。難波田は、神話という知のあり方が有する、国家論としての本質的重要性に着目する。

孔子もまたプラトンも、その統治論はきわめてシンプルだ。端的に言って、それは単なるエリート独裁にすぎない。ところが、難波田は、このネガティブな議論のその蓋をすぐに閉じてしまうようなことはせず、むしろポジティブに論究を進め、共同体倫理の確立を問い、実践していくその方途を、孔子・プラトン両者の神話の知に探ろうとしたのであった。

リベラル・デモクラシーなど歯牙にもかけず、民族の内的調和に一切の疑問を呈することなく、神話なる共同体の知のその何ものにも代えがたい重要な知的価値に光を当てようとしてきた戦前の難波田には、戦後にいたって、ファシズム支援の汚名が着せられてきた。その戦前の難波田による、孔子とプラトンのシンプルなエリート独裁論に着目する戦後の思想家は、筆者の知るかぎりにおいて、存在しない。

しかし、そこには、否定されるべきエリート独裁で終わらせてはならない国家論の深みを見出すことができる。難波田の神話論は、まさにその深みを析出する。第2巻の社会思想的意義が、まさにここにある。国家なる存在者のその支配性を真に反省的に克服していくために、難波田の神話論は普遍的国家論の視座を据えるものであった。難波田の神話論という深い山に分け入るということは、時間をかけ徐々に少しずつ、民族共同体のその普遍的深淵を認識していこうとする知的営みに取り組むことと、同義なのである。

孔子とプラトンの比較統治論に触れておこう。二人の統治論を比較する試みは、日本の神話を本格的に考察していくための準備作業でもあった。難波田は、理想というべき統治のあり方を求めて、神話という知のあり方に思考を潜行させていく。そのためのアプローチ法が、この第2巻において模索されている。孔子も、プラトンも、難波田が描き出すところによれば、絶対者が存在し、その絶対者が非絶対者を訓育するという構図のなかで思考している。孔子とプラトンは、おどろくほど似通っている。中国もまたアテナイも、当時の地政学的大国である。政治の中心で展開される統治論に、支配被支配の構図がみられるというのは、世界史の普遍的な現象である。こうした構図の知のあり方の検討を通じて、難波田がいかにして神話的知のあり方の普遍性へと視点を移行させていったのか。『国家と経済』第2巻を思想の書として読み込んでいくポイントのひとつである。

『国家と経済』第2巻の魅力は、プラトンの哲人と孔子の聖人の、またプラトンのいう正義と孔子のいう仁の、それぞれの共通性と差異に関する概説が、見事なまでにクリアに読者に示されている点にある。繰り返し述べてきたように、主題はやがて国家論へと展開していくのだが、スピンオフさせ考え込んでみたい論点に満ちているのが、この第2巻である。

たとえば教育論だ。本書執筆時、難波田春夫は38歳。新進気鋭の期待の若手が、古典に帰って何を見いだしたのか。プラトンの教育論は、一見したところ、たんなるエリート独裁論に見えなくもないのだが、そのエリートをどのように育てていくべきかについてプラトンが説くところ、すなわち、智慧とエロスの関係としてエリート教育が論じられている箇所に関する難波田の論じ方からは、学者と教育に関するひとつの重要な関係が詳らかにされている。難波田がプラトンの教育について論じているところを読むと、すぐれた学者こそすぐれた教育者でもあるというのが実相なのではなく、むしろ、すぐれた学者こそ教育者になりたいと強く欲する者なのではないかと、強く考えさせられる。真に重要な研究を世に問う真の学者こそが、教育をしたくてたまらなくなるというのが実相なのではないか。難波田によるプラトン哲人教育論の解説を引用しておきたい。


「彼(プラトン)によれば、教育とは、他ならぬ全体的な人間が他の人間の全体に働きかけることであった。したがってそこには、単なる理性のみではなく、愛が、教えるものの教えられるものに対する愛が、そうしてまた教えられるものの教えるものに対する愛が、働いている。花咲ける若者と実熟せる成人との間の愛、それによってのみ、後者から前者への教育がありうる。エロスはたしかに教育の原動力として、中心的地位を占めているのである。だが、ここにいわゆるエロスの真にプラトン的な意味は何であろうか。「シュムポシオン」の語るところによれば、エロスは完全なる「智慧」と全然なる「無智」との中間に立って、たえず「智慧」にあこがれる「智を愛するもの」である という。「智慧」を愛することがプラトン的な「愛」なのである。「教育」のうちにはたしかに愛が働いているのであろう。しかしこの「愛」は、「智慧」においてすぐれたるものが、それにおいて劣れるものに対してなす「愛」である。一たびまことの「智慧」をもつに到ったものは、それを永遠にもとうと欲するにちがいない。しかし彼の肉体が亡ぶべきものであるかぎり、それは望むべくもないことである。永遠はただ「生殖」によってのみ可能であろう。「智慧」についてもまた、そうである。ただ「智慧」の「生殖」は、肉体によってすることはできない。ゆえに智慧すぐれたる「哲人」は、心すぐれたる青年をえらび、この青年の魂を孕ませることによって、その目的を達しようとするであろう。真にプラトン的なエロスは、哲人が彼の哲学を、後継者たりうると考えられる能力ある若者に伝えようとして注ぐ「愛」のうちにあらわれるのである。かくてエロスは、たしかに愛である。とはいえそれは、「智慧」に対する愛である。愛する「智慧」の永遠を欲するが、それは彼一人にては不可能であるため、この「智慧」を若者の魂のなかに懐胎させようとする。ゆえにそれは愛ではあるが、第一には「智慧」に対する愛であって、若者に対する愛は、ただこの目的のために出て来る二次的な愛である。愛のための愛ではなくして、「智慧」にささげられた愛である。「智慧」こそ、「哲学」こそ至高であって、愛はそのために役立っているにすぎない。そうしてまたそれとともに、哲人はあくまでも「智を愛するもの」であって、仁者のごとく「人を愛するもの」ではないということもできる。けだし彼の愛は、第一には「智慧」に向けられているのであって、ただそれの永遠を欲すればこそ、第二に若者に対して向けられるのだからである。哲人の教育、したがって彼の「政治」は、かくして 理智的であり、自己主張的であるを失わない。」

さて、プラトンと孔子の国家論である。いずれもいうまでもなく、リベラルデモクラシーとはほど遠い代物だ。啓蒙思想と市民革命を経たのちの現在の国家論からすれば、反自由・反人権・反法治の独裁的な国家像とさえいうべき過去の悪しき異物である。プラトンと孔子の理想の国家像のなかに、当時の難波田は何を問い、何を読み込もうとしたのだろうか。

まず、プラトンが語る神話にも、孔子が語る神話にも、難波田は、理想の国家、理想の人間のあり方を示す、永遠の型、これを見出そうとする。プラトンにおいては正義、孔子においては仁の概念が、それぞれ、この永遠の型の中心となるが、両者はしかし、理想の人間の型に関して、対立する。難波田の説明を引いておこう。


「正義がすでに述べたごとき自己主張の傾向を有するとき、仁は完全に自己否定的である。仁は種々の場合にあらわれる。たとえばそれは、人と人との間柄として考えられる父子、君臣、夫婦、長幼、朋友など5つの場合に分けて考えられるが、これらの関係のどれ一つとして、仁はつねに自己否定的、没我的にのみ現れて来るのである。たとえば父母は子に対して、子は父母に対して、思いやりの心に動かされ、あるいは慈愛を、あるいは孝養をつくす。そうしてそこには何らの自己も残されていない。彼らはお互いにわれを忘れて、ただ相手のことのみを思いやり、決して自分のことを考えない。この己れなき愛、惜しみなく与える愛が、仁なのである。かくてここには、かの正義におけるがごとき荘厳なばかりにも見える厳粛さ、透徹した理性の導きの下に自己を完成せしめようとする峻厳な努力は見られないが、われを忘れてまでも、自己のすべてを他のもののために 役立てようとする心情の温かさがある。一言をもっていうならば、正義と仁との差は、自己のことをすることと人を愛することとの相違である。前者が何よりもまず自分をめざしているに対して、後者はただひとえに没我的である。」

一見したところ、難波田は仁を説く孔子にシンパシーを感じているようにも想像できるのであるが、しかし、『国家と経済』第2巻に、そのように読み取れる箇所はない。プラトンが説く正義にもまた、難波田はリスペクトの眼差しを向けているようだ。

難波田が仁の経済と正義の経済に注目し、孔子とプラトンの原典に潜行しつつ、その意義について論じている箇所にもふれておきたい。経済が埋め込まれるべき価値システムとは何であるのかについて、若き難波田先生が古典に向かうその向き合い方を教えられるとともに、戦前の難波田国家論のコアとなる思考の土台に出会うことができる。孔子が説く仁の型に依拠すると、理想の経済は、自己を滅した思いやりの農本経済となる。農業には、自己を滅し他者を活かす思いやりの精神が必要だからだ。それに対して、プラトンが説く正義の型に依拠すると、理想の経済は、絶えず富裕と貧困の間の中庸を求める営みであり、他国との交易も、足らざるを補う限りに留めなければならない。端的に言って、仁の経済も、正義の経済も、経済成長の追求それ自体を否定する。人間の正しい生き方が実現される形で維持されていかなければならない。少々長いが、難波田が考察したところを引用しておきたい。

「中庸は、このようにして、明らかに孔子においてもプラトンにおいても、経済がよるべき準拠であった。仁が一貫の道であろうと、正義がそうであろうと、いずれにしてもそれらが経済において現れるとき、それらは中庸という形をとる。仁および正義の経済における現れ方は、いずれも中庸なのである。経済における中庸、われわれはここに、あまりにも遠く現代思想とかけ離れたものを見ないであろうか。──現代人にとっての常識は、「最大多数の最大幸福」であった。もちろんこの場合の幸福は、本来それが持っていた物質的快楽という意味を変質させられて、精神的なものともされたであろう。しかしこの修正は、結局単なる表面においてであって、物質的・肉体的快楽の上に精神的なまことの幸福が置かれてはいるが、前者は後者の手段であるとされてはいるが、しかしなおこの手段が「中庸」であるべきことには、考えが及んでいない。手段が多ければ多いほど、目的への到達も十分になされるとされる。物質的な満足の手段が最大であることは、依然として幸福を最大にするための必須の手段と考えられているのである。一見確かに、すでに述べたように、手段の最大は目的到達の最大を可能にするとも考えられる。しかしそれはそうではなかった。心が奢りやすい大衆にあっては、最大の手段はともすれば、目的が何であるかを忘れさせる。ゆえに、一度最大の欲望満足の手段の追求が是認されたと仮定する。ならば彼ら大衆は、できる限りかかる手段の多くを求めようと努力するであろう。欲望の形は種々雑多であるが、ともかくそれらはすべて金銭によって獲得されることにより、大衆はすべて金儲けに夢中になってしまう。心を緩める者は、もちろん直ちに峻厳な優勝劣敗の原則によって罰せられる。ある少数のみの見識ある人々は、あるいは欲望の満足そのものを目的とせず、さらにより高いものに目標を定めているであろう。とはいえかかる人々すら、好むと好まざるとにかかわらず、この激しい競争に参加せざるを得ない。その結果、どのような事態が生じるか。

 激しい生存競争は、確かに一方では著しい富の堆積をつくり、華美を極めた、いわゆる文明の世界を築き上げるであろう。それはわれわれが眼前に見るとおりである。しかし問題はむしろその他の側面である。まず金銭への狂奔は、それが単なる手段であることを知る者すら、金銭の奴隷とさせずにはおかない。それを免れようとすれば、生存競争に敗れる。かくして万物の尺度は富となってしまう。尊崇されるもの、社会的な地位を決定するものは金銭である。しかるに金銭を愛する者は、それ以外の一切のものの価値を軽んじ、やがては人間すら利の対象とばかり考えて、人間労働を商品と見るに至るのである。かくしては当然人と人との間から、美しい心の交感はなくなり、いわゆる共同社会は崩壊して、利益社会が生じるであろう。そしてかかる社会からは、また生活感情と呼ばれる生の味わいが消え失せて、乾燥しきった生活しか残らない。人は富を快楽の手段と考えながら、この手段を追うのに忙しいため、ようやく寸暇を見出しうるにすぎない。彼はこの寸暇をできる限り効率のよい享楽によって満たそうとする。しかし金銭への狂奔に追いたてられる生活の不安は、これに耽るだけのゆとりさえ与えない。あわただしい労働と不安な享楽とが交錯する。したがって彼らの生活感情は空虚である。何のために生きているのか、分からなくなる。したがってまた彼らは、この空虚感を打ち消そうとして、ますます強烈な快楽に向かう。悪どいエロとグロと、そしてまたそのあとに望まれる意味のないナンセンスとが、彼らに襲いかかってくる。しかし絶え間ない労働にすり減らされた彼らの神経は、それらをすら十分な慰めとして受け入れることができない。しかも彼らは、労働とかかる慰めとを除いては、何らの力をも残してはいないであろう。ゆえに彼らは、簡便という言葉に弁護されて、可能な限りの怠惰な消費を求める。しかも彼らは、それをすら落ち着いて味わうだけの落ち着いた心を持ってはいないのである。

 思えば、華美を極めた近代文明も、われわれには不安以外の何ものをも与えなかったのである。経済が人間生活における癌であるのは、まさに掛かる理由からである。他の人間生活の領域と無関係な経済生活のみの増大、発展は、あたかも肉体の他の部分に関わりなく肥大していく組織のごとく、全体としての人間生活にとってますます破壊的となるのである。たとえそれを手段としてであれ、かかる手段の最大を求めた近代思想は、一切の手段(ミッテル)が手段(ミッテル)でなければならないことを忘れていた結果、かくも大なる不幸を見なければならなかったのである。経済のよるべき原理、経済の型が忘れられた結果は、かくも決定的である。またそれに気付いたからこそ、われわれはこうして型を、古典への反省によって見出そうとしたのである。経済の中庸、それはいかなる場合においても、経済にとって忘れることのできない経済の型である。いかなる形態の経済も、これに似ている限りに於いて経済と呼ばれるが、しかしまた決して完全にそれと一致することはできない。すべての経済はただこの型に向かって、よりよく似ようとのみ努力すべきなのである。

 かくして孔子とプラトンとにおける経済の型は、その形において中庸であった。だが、それらは等しく中庸でありながら、なおそこに看過しがたい相違を持っている。われわれはそれを否定することができない。そもそも「中庸」は「経済の型」ではあるが、それは単なる外形においてであって、内なる心においては、両者は異なるものから来ているのであった。すなわち孔子における中庸は、仁によって貫かれ、プラトンにおけるそれは正義に基づいている。その結果両者における中庸は、仁と正義のそれのごとき対峙を示さざるを得ないのである。──

 まず仁は思いやりであった。仁が道であるところにおいては、人は「自然を友とする」。あるいはそれを、同じ父の生んだ兄弟と見る。決してそれを、われわれが支配し、克服していくべきものとは考えない。温かい「思いやり」の心をもって自然のなかへ、われを忘れて溶け込んでいこうとする。しかるにかくのごとくにして、人間が自己を否定して、自然の立場に立つならば、彼はそこにただ己を空しくして人間のために役立とうとする自然を見出すに違いない。彼はこの役立ちに対して感謝せざるを得ないとともに、自らもまた自然そのもののために、できる限り自己を捨てて役立とうと努めるであろう。ゆえに彼は決して自然を虐げない。むしろ自然をいたわりつつ、これを繁栄させようとし、この自然の繁栄に自らの喜びをさえ見ようとする。自然に対する利用、厚生としての経済の中庸は、この自然に対する心からの思いやりに満ちた人間の態度から来ているのである。

 しかるに、理性的、自己主張的な態度をもってするところにおいては、中庸はむしろ自己主張的なこの態度によって来る。ここでは、人は何よりもまず自己の生活が最も幸福であることを願う。かかる生活は、プラトンにおいては言うまでもなく観想の生活である。しかるに人間がかかる生活に浸るためには、肉体を持っている限り、この肉体をして最も妨げ少なきものとさせねばならない。元来人間は、現実の自然界と天上のイデア界との二つの世界の中間者である。人間の魂はもともと天の上なる世界に住んでいたのであるが、天をかける翼を折ったため、自然の世界に属する人間の肉の中に宿って、この自然的世界の中に生まれ来たのであった。しかるに自然の世界は天上なるイデアの世界の影である。魂はこの影を見て、かつて住んでいた美しい故郷を想起し、限りなく深い郷愁をもってこれを慕い憧れる。人間にとっての幸福は、魂にこの郷愁を満足させ、もって魂の安らぎを得ること以外にはないであろう。ゆえに人は、できる限りイデアの世界の観想に浸って、これを妨げようとする自然的、肉体的な世界への愛着から免れることに努力すべきなのである。かくして観想の生活こそは、人間にとって最も幸福であり、最も価値ある生活であり、肉体の生活は常に否定されるべき値打ちない生活である。肉体、自然、要するに人間にとって煩わしいものである。とはいえこの牢獄に閉ざされている人間は、それを無視し、否定することができない。それは煩わしいものではあるが、なおやむを得ないものである。人はただそれを、観想の生活の妨げにならぬ程度にしておくよりほかはない。さればこそ彼は、中庸の経済、中庸の欲望満足を営むべきであると考えられる。欲望の満足が過度となり、経済に努力することあまりに大となるならば、観想の生活はおのずからおろそかとならざるを得ない。といつてそれを満たすことが不足すれば、肉体は満足を求めて泣き騒ぐであろう。欲望満足の、したがって経済活動の中庸は、かくして観想の生活のための最も良き手段とされるのである。いずれにせよ、ここでは経済の中庸は、人間が最も幸福なる生活を営むために必要であるとの理由をもって定立される。もちろん観想の生活は人のみなしうるところであって、その他の大衆の預かりうるところではない。とはいえこれは、人間の存在の仕方であって、彼らもまた一切の欲望を捨てて、これに近づくべきであった。そしてまたその代わりに、彼らにとっても限りなく増大しようとする欲望を抑え、これを中庸ならしめることこそ、純粋にして永遠なる幸福を与えるに違いない。そのために経済の中庸は、統治の規準ともなるのである。かくして中庸は、いずれにしても明らかに人間の自己主張的な態度から出ている。それは自己の幸福のために望まれている。ここでもまた人間の自然に対する利用は、適度の限界内に制限される。とはいえこの自然利用の適度は、人間自らが幸福となることを意識しての結果にほかならない。自己主張的な人間の自然利用は、ともすればそれが手段にすぎないことを忘れて、できる限り多くにと増大しやすい。しかし知恵ある理性は、そうすることがかえって自らの自己主張を十分ならしめないことを知っている。ゆえに増大しようとする心を抑えて、中庸の域にこれをとどめるのである。

 かくてもはや両者の対立は明らかとなる。温かい心情をもって自然を眺める者は、決して人間自身の利益のために自然に働きかけようとはしない。草花一つをつくるにも、草花そのもののためにわれを忘れて骨折る。そこには何らの自己もない。自然の繁栄そのもののうちに自己の喜びを見出す。そのためにまた彼は、おのずから自然を過度に利用しようとはせず、思いやり深く適度であろうとする。中庸は、かくして人間の仁なる心から来る自己否定に基づく。しかるにそれはまた、人間の正義なる心からも出てくる。ここでは、人は彼自らが真に正しく、幸福なる生活を営むことを主張する。しかるにこの最上なる生活は、一切の欲望を抑えることによってのみ可能であろう。欲望の全的な否定が直ちに生の否定を意味するとき、欲望の抑制はその満足を中庸ならしめることによって、その妨げをなくする場合に実現する。経済の中庸は、かくして人間が自己の正しさと幸福とを意図する場合にも現れるのである。この場合の「中庸」は明らかに自己主張的である。中庸は自然を思いやることからも、自分自らを思うことからも、出てくるのである。」

難波田は、経済の正しき道としての中庸の理念を検討しつつ、人間の共同体のノモスを考察していく。聖哲なる者のみが真に正しい教法を示すことができるという認識に立つならば、その聖哲なる者なきあとの国家に正しい法を与える仕組みは何であろうか。もちろんそれが、神話の知なのであるが、難波田はこの『国家と経済』第2巻において、まさにこの点を詳らかにしようとたのである。

この点をもう少し見ておこう。プラトンに読み込まれる国家論においては、エリート主義が突き詰められていく。人間の正しい生き方、社会の正しい秩序に知悉する聖哲、要するに真理を知り尽くした凄い哲学者にして凄い政治家の物語がプラトンによって物語られるのであるが、しかし実はこの語りを通じて絶対的スーパーエリートのその限界が問われているのでもあるという点に留意したい。聖哲はどこから人間と社会の真理を知るのか。それは民族の歴史と伝統からである。ではその歴史と伝統に根づいた正しい生き方、正しい秩序のあり方はどのように民草たちに浸透させていけばよいのか。それは法を通じてである。では民草が法に従うようになるのは、どのようにしてなのか。それは法への尊敬を通じてである。では民草たちはどのようにして法を尊敬するようになるのか。と、討究は続く。行き着くところは、祭祀と遊戯である。非日常のフェスティバルへの真面目さが大切なのだというアーギュメントに行き着くことになる。難波田の文章構成力には、学術的思考の醍醐味さえ感じられる強靱さと魅力が備わっている。

支配階層の絶対的無謬性と被支配階層の絶対的劣等性が何度も繰り返し強調されるプラトンの『国家』を読まされると、気が滅入ってくる。しかし、そうした絶対の、スーパーエリートの存在があってはじめて国家はその正しい秩序を保っていけるにも関わらず、そのようなエリートが存在しないとなれば、国家は如何にしてこのスーパーエリートにかわる正しき国家維持装置を手にすれば良いのだろうか。エリート独裁の神話的議論からは、こうした論理の展開が可能にある。難波田は、まさに聖哲など存在しない現実の国家にあって、いかに正しい生き方、正しい秩序が可能かを問うていくそのプロセスにおいて、聖哲なる独裁的スーパーエリートのその政治主体としての本質的特徴を露わにしていく。難波田のプラトンの読み方、そして孔子の読み方には、現代的人権主義/立憲主義のリベラルデモクラシーに則した批判は皆無であり、危険な極右イデオロギーの発露にすぎないとの非難も可能である。しかし、あたかもファッショ国家の存在論的正統性を追及するかのような古典の読み方から、実は為政者のたんなる媒介性(正しきことを共同体に浸透させていく媒体的存在に過ぎないこと)が浮かび上がってくる。為政者はひたすらに絶対者を志向することを通じて、ただひたすらに民草に仕える身であることが主張されているのである。孔子とプラトンを読み込むことを通じて構築されていく難波田の神話論的国家論は、エリート独裁の構図を、民草の奴隷としての独裁者という構図へと、価値転換するものである。

この価値転換は、しかしそうシンプルに価値評価してはならない。難波田は、『国家と経済』第2巻において、絶対的権威主義国家のファシズム的発想を手に取れるように分かりやすく説明しているのだが、その説明にあって、難波田は、プラトンが説くところの、若者に異国の音楽、新しい音楽を禁じ、外国人の流入も徹底的に制限するところに、賛意を表している。プラトンのこうした排外主義とエリート独裁には、甚大なる危険性が見出されるべきなのではないか。しかし難波田は、むしろリベラルデモクラシーとマーケット経済の資本主義の方を、重大に問題視するのであった。

なお、ファシズムの基本の論理が孔子とプラトンに探られているとはいえ、ファシズムという名称はどこまでもヨーロッパの地において広まった観念であり、1930年代の青年期難波田春夫が意識していた概念ではない。そしてなによりも『国家と経済』第2巻において深刻に検討されているのは、正しい政治のあり方について、孔子とプラントンがどのような主張をわれわれに遺したのかであった。そしてその主張は、ふたりの神話論に見出すことができるというのが、難波田のアーギュメントである。

さて、国家の正しい秩序のあり方をいかに維持していくか。聖王や哲人が民に与えた教えを維持していくことが絶対的に求められるのだが、聖王も哲人も未来永劫、存在しつづけられるわけでなく、 聖王・哲人なきあとの国家のあり方が構想されなければならないわけだが、プラトンと孔子はこの問題をどう考えたのか。結局のところ、絶対の真理が存在し、かつ、それを提供できる人間が存在し、もって、これを引き継ぐエリートたちが自らの権力を自らのために使うことなく、ただひたすら民にその教えを浸透させていくことに人生の全てをかけていく、これが難波田によって解説された孔子とプラトンの神話的世界の構図である。もちろん、人は腐敗する。だからこそ、聖王・哲人の教えをただひたすらに1ミリも変えることなく引き継いでいくことが求められるのだという。

難波田が孔子とプラトンに読み込もうとしたその親和的世界の構図について、今少し具体的に考えてみたい。プラトンと孔子がそれぞれに描いた理想の経済のあり方に関して、難波田は両者の共通性に注目する。それは農を本とする経済であり、かつ、いたずらに成長を求めない経済である。20世紀風に換言すれば、これは定常経済だと言えよう(21世紀にこの言葉がとんと見られなくなってしまっていることに、現代資本主義の深い問題性の現れの一端を見出すことができるかもしれない)。ただ、このプラトン的・孔子的定常経済は、何と言うべきか、私利私欲にまみれた支配者が存在しない場合のファシズム的社会だとも換言できよう。個々人の自由なる自己実現などという発想は皆無だ。各人はそれぞれの分に応じた生活のなかにみずからを埋没させていかねばならない。ただし、あらゆる自国民を絶対に飢えさせることはしない仕組みが、この定常経済に埋め込まれている点に注意が必要だ。現代風に換言すれば、いわゆるベーシックインカムの制度である。外国人を排除すべきとするプラトンのその排外主義的思想、完全なる階級社会の肯定には、薄気味悪さを感じざるを得ない。孔子においては曖昧な記述になるものの、難波田によればプラトンも孔子も同じだという。あえていえば、成長至上主義が克服された国民社会主義だと、言い換えられるかもしれない(国民以外に市民権はなく、異国民はただ放追されるのみ)。こうした排外的抑圧社会が、定常経済とベーシックインカムの二本柱によって支えられ、社会の安寧と個人の倫理的気高さが獲得される、という主張になろう。コスモポリタン的普遍的シティズンシップという発想は当然のことながら、若き難波田春夫にはありえない。真の日本的なるものでもって、欧米のリベラリズム、ソビエトのソーシャリズム/コミュニズムからの思想的独立を苛烈に進めようとした若き難波田春夫が、プラトンと孔子に学び取ったことは、適度な経済と絶対の所得分配にシンパシーを感じつつ、結局は、日本的なるものへの徹底的な沈静熟考が要請されるという思想的方向性であった。

そして、というべきか、しかし、と繋ぐべきか、迷うところだが、若き難波田春夫は、プラトンと孔子の世界を乗りこえていこうとする。ひたすらにプラトンと孔子のテキストに分け入った彼の研究は、この第2巻で一区切りとなり、いよいよ『国家と経済』第3巻の日本神話論へと研究が進んでいく。難波田はこの第2巻を次のように閉じている。

「・・・適度の土地の分配をうけた人々は、ここにこの土地を経営することによって適度の生活手段を得、以て最も有意義なる祭りの生活に入ってゆく。もはや彼らに対して要求せられることは、かくの如く分かち興へられた分割地をまもり、決して他人の分に侵入しないといふことのみである。ゆえにたとへばプラトンに於けるノモイの國家は、農業に関して、まづ「何びとも、土地の境界石を動かしてはならない」と規定する。隣人との間になされる正しからぬ行為は、たとへその一つ一つが如何に小さくとも、堆積するにした がって大きくなり、したがつてまたそれだけに怨恨の度を高め、正しく行はれるならばそれ以上美しいものはないとまでいひうる近隣の生活を、それだけにまた堪へがたく不愉快なものとする。動かすべきものがあるならば、それは境界の石ではなくして、耕作を妨げてゐる岩石なので ある。

 同様のことは、農耕に於けるあらゆる営みについてもいはれる。たとへば隣人の土地に自己の 家畜を放たないやう、木を植ゑるにも他人の土地から一定の隔たりを設けるやう、共同の水源から水をひくときには他人の水路を横切らぬやう、許可なくして他人の土地に生する果実をとらぬやうなど、無限に多くの規定が同じ原則から出てくる。それらの一つ一つを述べつくすことは、歴史的條件の美化にしたがって種々差別あるものとなるかぎり、不可能でもあり、また不必要でもあらう。必要なることは、むしろかかる具体的な規定がすべてそれより出で来る根源としての法、教へあるひは人間的生活のしかたを明かにすることである。この根源より出で来る規定にあらずんば、幾千百の規定を以てするとも、つひに國家から災ひを除くことはできない。それはプラトンみづからの譬喩を以てするならば、「ヒュドラの頭を切る」やうなものであつて、切りとつた傷口から直ちに新しい二つの頭が生ずる。一つの害悪を一つの規定によつて除かうとするとき、その結果直ちに二つの害悪が生れ來るのである。

 ヒュドラを征服する唯一の策は、ただ根源としての教へにかへることのみにある。それ以外には、如何なる途もひらけてはいない。かくてまたわれわれがこれから進んでゆくべき途も、おのづからにして明かであらう。われわれはわれわれ自身にとつて根源的な教へにかへってゆかねばならないのである。」

ここでいうところのわれわれ自身にとって根源的な教へ、それが、第3巻にて詳らかにされていく日本の神話である。折を見て、とりあげてみたい。

最後に、当時の東京大学法学部において国家を背負う気概をもった若き鋭才が、その学術的営為においてどのような実践的意識を保持していたのかについて、考えていきたい。孔子研究への、またプラトン研究への国際的貢献など、その意図は微塵も感じさせないテキスト構成だ。30代の若き鋭才にとって、国際水準の研究を為すことは大いなる野心であったのではないかと、ごく当然のごとく考えてみたいのではあるが、当時の(そしてその後の研究生活も含め)、難波田にとってはそんなことはどうでも良かったようである。ドイツの学術雑誌に投稿したのも、戦後の公職追放を経験した身にあって、研究を発表する場が限られていたからである(本人はそう告白している)。東大法学部発行の学術雑誌に毎号寄稿していたドイツの経済学研究動向紹介をみても、意識は日本の学会ではなく、ヨーロッパの一線級を志向していたことは間違いない。しかし、それよりも何よりも、学術研究が進まねばならぬその道は、若き難波田にとっては(そしてその後生涯を通じてと言うべきなのだが)、善き社会とは何であり、どのように創り出していくべきかという問い、ただこれを問う道のみであった。

文・臼井陽一郎

「経済学研究所叢書」をめぐって

第二次世界大戦後の難波田春夫は、講談社・野間社長の招聘により、同社内に置かれた経済学研究所を拠点として研究活動を再開した。その成果物である『経済学研究所叢書』は、難波田にとって、戦前と戦後をつなぐ実に重要な研究成果であり、難波田春夫の学問の発展について考えていく上で、貴重な資料でもある。

講談社・野間社長が難波田に経済学研究所を用意した経緯について、『追悼・野間省一』 の117~120頁に難波田自身が次のように記している。少々長くなるが、引用しておこう。

「・・・思い切って、当時のことを一言でいうと、私は野間省一さんにかくまわれて、占領下の異 常状態のもとで「生きていた」のである。一面識もない野間さんを講談社に訪ね、経済学研究所 をやりたいがとお願いしたのは、たしか昭和20年も終わろうとする頃であったが、「何のオブリゲーションもありません、ただ勉強さえして下されば結構です」とおっしゃって、間もなく三階に「経済学研究所」という看板のある部屋を用意して下さった。オブリゲーションという英語 を使われたのが、いまでも強く印象に残っている。私は感動した。こうして私は、野間さんにかくまわれて、講談社の一室の中で歯ぎしりしながら勉強することになった。いま、私は「かくまわれて」という言葉を使ったが、それは決して誇張ではない。何しろ終戦と同時に、それまでは、現在の「フライデー」、「フォーカス」に相当する某誌の言葉をそのまま 引用すれば、「若くして壮大な国家学の体系を樹立した」などといわれていたのが、一夜にして様変わりし、四面楚歌の中におかれるようになったのだからである。あんな男と付き合っていたら、占領軍からどんなお咎めがあるかも知れないと、誰も彼もが寄りつかなくなった。そんな時期だったからである。何もおっしゃらないが、野間さんの好意は身に沁みて感じられた。」

昭和20年暮れとのこと、難波田春夫39歳の時である。けしてベテランともいえない時期の、むしろ若手とさえ言うべき研究者が、戦後、一面識もない野間社長を講談社に訪ね、研究の継続が叶ったのである。難波田にとってこの経済学研究所がいかに重要な存在であったか。容易に理解できよう。難波田という研究者の底知れない強さとともに、基礎研究に取り憑かれた難波田の、この道を歩むほか生きる道のない難波田の、その生き様が、このエッセイに、当時の自らへのやわらかきまなざしでもって、記されている。

  『経済学研究所叢書』の、昭和27年(1952年)4月付けの発刊の趣旨を、引用しておきたい。

発刊の趣旨:本研究所の本来の目的は、経済学及びその根柢に関する基礎的原理的な研究である。しかしこの学問の性質上、現実の諸問題との接触を回避しない。研究の途上、当面の問題に対する基礎的原理的な検討がなされ、その限りにおいての成果が生ずるのは当然である。そこで本研究所は、これらの──本研究所としては副産物ともいふべき──研究の成果中多少とも世に稗益するところがあると思はれるものを選んで、随時これを発表することとした。本書はその第四集である。昭和二十七年四月 経済学研究所(代表者 難波田春夫)

ここに記された「本研究所としては副産物ともいうべき──研究の成果中多少とも世に裨益するところがあると思われるもの」が、下記にまとめた『経済学研究所叢書』の各集である。

経済学研究所叢書

  • 第1集   新しき愛国心─日本再建の基本原理について 
  • 第2集   講和後経済の基本問題 
  • 第3集   平和の理論 
  • 第4集   労働の哲学 
  • 第5集   天皇制緒論 
  • 第6集   戦後世界経済分析 
  • 第7集   レーニン主義の本質 
  • 第8集   マルクス主義の本質 
  • 第9集   経済不況の現状分析 
  • 第10集   資本主義と農業制度─マックスウェーバーの所論
  • 第11集   市民社会の法と道徳─カントにおける 
  • 第12集 東欧経済の現状 
  • 第13集 戦後独逸経済の国家・経済論
  • 第14集 戦後独逸の社会主義

本来は、第1集に記された発刊の趣旨を確認すべきところであるが、その第1集が手に入らない。発刊の趣旨がその文言を各号ごとに異にすることもなさそうであるが、上記引用は第4集のものであることを、一応ここに記しておく。

なお、その第1集の「新しき愛国心」と同じ主題をもつ論考が手元にある。難波田春夫「新しき愛国心─新生日本の基本原理について」『日本新生叢書』第一集(日本新生協議会)1951年9月25日発行(編集印刷・発行人:清水泰雄)。この『日本新生叢書』の愛国心論考と、『経済学研究所叢書』の愛国心論考が、どこまで等しいものであるのかについて、確認する術はないのだが、論旨に大きな差異があるとも思えない。

難波田の愛国心についての論考は、その題名だけ、あるいは前半部分から直感的に茫漠とイメージするだけでは、右翼的心情による戦前へのノスタルジーにすぎないとの印象をもってしまいかねない。しかし後半部分も合わせて通読すると、難波田の研究の本質的な論理展開がみえてくる。

なお、戦後すぐの難波田の研究は、以上の『経済学研究所叢書』および『日本新生叢書』とともに、『東京都立商科短期大学研究報告』にも発表されていた。今後とも調査を進め、戦後すぐの難波田の研究の全貌に近づいていきたい。ここでは、昭和30年1月付けの、『東京都立商科短期大学研究報告』創刊の言葉を引用しておく。難波田が学術研究をどのような実践として捉えていたのかが、明確にわかる文章である。


「危機意識が問題意識を、問題意識がその解答を要請してやまない。学問の進歩はかくして危機意識の発生に促がされた。この意味において、地上から平和の消え失せた今日ほど経済学の進歩が期待されている時はない。平和を──アウグスチヌスとともに──「秩序の静けさ」と規定するならば、現代の不安の根本的原因が社会の根抵をなす経済における秩序の喪失、あるいは少くともその動揺にあることは、もはや否みがたい事実となっているからである。それゆえ、いま経済学は、他のあらゆる学問にもましてこの危機を意識し、この問題を自覚し、自己に寄せられた解答への期待をひしひしと感ずるのである。大学はもともとuniversitas scholarium、即ち真理を愛し、真理を探求する学徒の集団を意味した。本学は昨年4月に創立されたばかりであつて、その数はまだわずかであるが真理の探求に情熱をもつことにおいて人後におちぬ学徒ばかりの集団である。ここに本誌を発刊して、 われわれの日頃の研究の一端を公けにし、大方の批判を仰いで今日世の期待するところ最も大きい経済学の進歩のために、いささかでも寄与するところあらばと念願する次第である。」

さて、上述の愛国心論考において、難波田は紛れもなく、ヘーゲリアンであった。日本社会を貫く近代的経済社会の論理を見抜いていこうとする壮大な難波田の研究は、ヘーゲルの人倫の学を柱のひとつとしていた。それは愛国心論考に明確に見てとることができる。しかし、難波田はまた周知のように、ヘーゲリアンであることに止まる学者でもなかった。ヘーゲルに依拠しつつも、マルクスが見抜いた近代経済社会の根本的矛盾を克服していくために、いかなる原理が要請されるのかについて、難波田が進めた洞察は、歴史的にも地域的にもどこまでも普遍的なるものをまさに日本的なるものの深奥において追求する、真に日本主義的性質の思考であった。

『日本新生叢書』版の愛国心論考から、次の箇所を引用しておきたい。

「要するに、日本はこれまでのさまざまの社会的欠陥を是正するため、大いに自由と平等、自由民主主義と共産主義の制度の長所を採り入れなければならない。この努力はどれほど大きくても、決して大きすぎることはない。とはいえ、これら二つの相互に対立する原理、制度の両方を採り入れることを可能ならしめるものは、却って過去の日本が持っていた人倫的愛の原理である。このことを忘れてはならない。それゆえ日本は、過去の自分を捨ててしまって自由民主主義や共産主義に変える必要がないどころか、過去の自分の原理を持ちつづけることによって、はじめて本来ならば相容れぬ自由民主主義と共産主義の制度をともに包容し生かすことができ、真に理想的な社会組織をうちたてることができるのである。日本は自己を見失ってはならない、但し、本当の自己を、より高き自己自身を。」

「日本のもちつづけて来た人倫の原理が自由民主主義や共産主義に対して何ら劣るところのない、というよりは、それら両者の原理を統一するより高次のものであり得る以上、われわれの日本に対する愛情、われわれの祖国愛は、理性的にも承認できるものであった。いな、理性的に承認すべき真のもの、最高のものであり得た。われわれは伝統的な愛国心をかくして再確認しなければならない。しかし他方、われわれは日本における人倫の原理を反省して、その人倫的愛が自由と平等とを統一する原理であることを、もっと深く自覚すべきことを知った。この自覚は、もちろん単なる観念的な自覚に止まらず、社会の組織制度のなかに具体化させて行かねばならない。人倫的統一のなかにおいてではあるが、またかかる場合においてのみ可能なことではあるが、自由民主主義の自由と共産主義の平等とをできるだけ進めて行く努力が必要である。われわれの愛国心はこのような自覚をもたなければならない。だからして、それは単に過去の日本の愛国心を再確認するだけではなくて、それと同時に、上述のような自覚に基づく多くの革新を断行する責任をもっている。われわれの愛国心は、かくして一方では伝統に即した旧いものであるが、他方では革新の意志に燃える新しいものでもある。それは旧くて新しい日本──日本の新生──をつくり出そ うとするものである。」

こうした難波田的日本民族主義の思想は、『経済学研究所叢書』第3集の「平和の理論」においては、国際平和の原理を思考する根拠ともされている。この平和論考は、愛国心論考において論究された難波田の人倫の原理が、国際の平和を論ずるにあたってどう援用されているのかを考えさせる論理構成となっている。難波田のいうところの民族主義が、国際平和の原理として明確に示されている箇所を引用しておきたい。

「世界に永久平和をもたらすものは人倫の原理であるが、アジア、アラブの民族主義運動は、資本主義と共産主義との止揚、したがつて米ソ二つの世界からの解放、という独自の道を進むべきである。民族主義は国際的対立をひどくし、したがつて戦争の原因になると考えられがちであるが、真の民族主義はむしろこのようにして米ソ二つの世界の間に障壁を築き、その間の対立を緩和する働きをするであろう。しかも、民族主義運動が孤立することなく、運命の共同を自覚して相互に連繋をとるならば、第三次大戦の回避必ずしも不可能ではないであろう。われわれのいう人倫の原理はこうして眼前に迫つている戦争の回避に対してすら効果的な手段を示すのである。民族主義がその原理にしたがつて正しい道を歩むことが、平和を確保する根本策である。永久 平和への永久の道もまたこの原理による道以外にはあり得ない。」

核戦争の危機がそれまでの世界史にはみられない激しい緊張感を世界中に浸透させていった冷戦時代の最初期にあって、難波田は、公職を追放されてなお学術の道を歩み続け、公職追放解除ののちもそれまでと変わることなく、日本的民族主義を見直しつつ、そこに通底する普遍的根本原理を掴み直そうと、学術的営為をさらにいっそう深めかつ拡張していった。その際の「副産物」とも言われた上記論考は、難波田自身の社会科学古典研究ノートであり、当時の現代世界経済論ノートでもある。難波田の研究のその体系の展開を見定めていく上で、貴重な資料となるだろう。今後、折にふれ、本サイトで紹介していきたい。

文・臼井陽一郎

上久保敏「悲観的経済学者難波田春夫」『日本の経済学を築いた五十人』

 難波田春夫自身の論文・著書の解題とは別に、今回は難波田春夫を論じた論文の紹介をしたい。

 今回は、上久保敏の『日本の経済学を築いた五十人――ノン・マルクス経済学者の足跡』(日本評論社、2003年)で取り上げられた「悲観的経済学者難波田春夫――『経済の危機』と『近代の終焉』」を紹介する。

いろいろな意味で危機管理のあり方が問われる時代となったが、経済の危機といえば、難波田春夫の名前が頭に浮かぶ。彼は生涯を通じて近代社会は資本主義体制に潜む危機の本質を見極めようと努め、警鐘を鳴らしてきた。時に悲観的経済学者と呼ばれる難波田の問題意識を探ってみたい(p.179)。

 論考はこのような文章からはじまり、難波田の経歴と彼がおかれた時代状況、戦前と戦後の思想の比較などが簡潔に説明されている。

 簡単にいえば、戦前の難波田の思想の特徴は、「資本主義の矛盾を克服するための国家の理念の探求」と、「国家と経済の根底にある国民共同体の発見とその称揚」だといえよう。前者は戦前「洛陽の紙価を高めた」といわれた『国家と経済』の第一巻から第三巻までで追求され、後者は同書第四巻ではじめて「国民経済三重構造論」として提示された。

 戦後の難波田に関して、上久保は難波田独自の「自同律と相互律」という哲学的視座をベースに論じている。自同律とはつまり「AはAである」という、物事をばらばらに独立して捉える分節的思惟の論理であり、相互律とは「Aは非Aなくして存在しない」という実在の世界の論理を指した用語である。上久保はこれを「経済の自由は国家の規制なくして存在しない」という、戦前からの難波田の思想の一貫性として指摘している。

 限られた紙幅のなかで多くの経済学者の経歴や思想を紹介する本書の特徴から考えると、この難波田経済学や難波田哲学の要約は理解できる。ただし、戦前の難波田の「三重構造論」は、「国家・経済・共同体」の三重構造を直接的には意味しており、「家・郷土・国体という共同体の三層構造」とは異なる。戦前の『国家と経済』第四巻のポイントは、この三層構造を包摂した三重構造論であるということが、本文からは読み取りにくい。

 また、戦後の難波田哲学に関しても、上久保は戦前からの連続性を強調するあまり、戦前と戦後の「共同体」の視点の違いを無視してしまっている。戦前の彼の「共同体」は「天皇を中心とした理念としての国民共同体」を意味していた。これに対して、とくに前野書店版の『国家と経済』(1969年)以降の難波田の考える「共同体」とは、「Aと非Aがともに存在する場としての実在の共同体」であり、それは私たちの分別的思惟によっては捉えられない。そのため、その「共同体」とは「いたるところにあるが、どこにもない」としか言えないような哲学的思惟によって捉えられる「場」のことである。

 以上のような難点をもつものの、難波田の業績を含めて、その全体像を紹介している本稿は、一般向けに難波田春夫について知るための非常に良い導入になりうる。私も、学生に授業で難波田を紹介するときには、まずこの論文を読むように勧めている。

文:廣重剛史

田村正勝(1970年)「社会科学者としてのハイエク」

https://dl.ndl.go.jp/pid/2235471/1/16

※取り上げる論文は上のリンクから読むことができます(無料のアカウント登録が必要です)。

 田村正勝が25歳のときに、『経済論壇』(第16巻7号、1970年7月)に寄稿した論文。このなかで若き田村は、新自由主義的経済学を代表するハイエク(Friedrich August von Hayek, 1899-1992)を取り上げた。

画像
『経済論壇』16巻7号表紙

 この『経済論壇』は、1955年7月に創刊され、時の経団連副会長を筆頭とする財界向けの雑誌だった。その後、木内信胤が中心となり、1967年7月号(第13巻7号)から「新自由主義」の機関誌を標ぼうして、1993年9月号(第39巻9号、通巻437号)まで約40年間継続した。なお、木内は1958年にハイエク自身から誘われ「モンペルラン協会」(新自由主義を広げるための国際組織)に加入した日本人第一号である[1]。

 さて田村は、こうした性格をもつ雑誌の基盤的な思想である、ハイエク自身の社会科学に関する論考を検討した。そのなかでは、ハイエクがウェーバーの社会科学論への批判を通じて、あるべき社会秩序の問題の考察にうつる様子が描かれている。すなわち、ハイエクによれば、ウェーバーは科学的認識と価値判断を区別することを説いた(没価値性、つまり個人の価値判断を科学的な判断に入れないこと)[2]。しかしハイエクは、その区別をおこなうためには基準となる価値(=あるべき社会)自体を明らかにしなければならないという。

 では、そのあるべき社会とはどのようなものか。ハイエクは、「人間の理性は事物の本性を部分的にしか把握できない」という哲学に基づき、理性によって社会を計画管理することの限界を指摘した。したがって、あるべき社会は、自由と「交換の正義」が守られる社会である。そして、このような自由と両立する社会秩序が、人間の作為を超えた「自生的秩序」であることが本誌では解説されている。

 こうしたハイエクの思想に対する田村の評価は、本論文ではそれほど明示的に書かれてはいない。しかしながら、ハイエクの思想が他の新自由主義者と比較しても、スミス以来の旧自由主義の立場と非常に近いことが指摘され、その違いがどこにあるのかと、ハイエクに対して批判的な疑問は投げかけられている。

 なお、田村はその後、『現代の経済社会体制』(1980年、新評論、106頁)のなかでは、ハイエクやフリードマンらの新自由主義について、「余りに歴史認識に欠けるところの、むしろ手放しの一九世紀的自由主義者の見解」と痛烈に批判している。このように田村は、自らもそこに身を置き、勢いを増しつつあった日本の新自由主義的潮流の真っただ中で、批判的に自身の立場を形成していったと考えられる。その田村の経済学や経済分析の特徴に関しては、田村が影響を受けた難波田春夫や、ドイツ歴史学派との関係からも今後明らかにしてゆく必要がある。


[1] 木内信胤(1986年)『國の個性』プレジデント社、p.25。
[2] なお、田村自身はウェーバーの価値自由について、以下のように述べている。

 しかしウェーバーは、このような客観主義的抽象的な方法だけを構想したのではない。先述の彼の「価値自由」の主張は、すでにリッケルトによって導入された「価値関係(Wertbeziehung, Wertbezogenheit)」の概念をも背後にもっていた。そしてウェーバーは、この概念から意味理解の問題にアプローチしている。それは厳密な「超越論的論理的な意味(transzendentallogischer Sinn)」であり、カント=ウェーバー的な思考では客観的なものと言えるが、一般的には主観的認識と考えられるものである。それは次のごとき意味理解であり、われわれはここに実践の要請を読み取ることができよう。
 探究者がどのような価値観点から対象をとりあげようとも、社会科学においては最終的に向かう「価値関係」がある。自然科学における理論領域は、探究の出発点をどこに置くかで探究の方向や結論が異なってくるが、社会科学では、必ず向かう一定の価値――ウェーバーはこれを星々(Gestirne)と言う――がある。それは探究者の価値観点やそれに基づいた対象の構成以前に、対象自体が置かれた本来の価値関係である。探究者がどのような価値観点から始めようとも、それをつき進めているうちに、自分の仕事と意味と方向性を明らかにしてくれる「星々」に、すなわち本来の価値関係にまで到達する。そこで探究者は、自分の観点や立場あるいは概念装置を転換して、そうした方向や意味に従うことになる。したがってこのような本来の価値関係は、経験科学的な基準で維持されたり逆に否定されることのない、根源的な価値関係だということである。

田村正勝(2000年)『新時代の社会哲学[新装版]』早稲田大学出版部, p.158.

文責:廣重剛史

勉強会の日程を公開しました!

RISSではこれまで、DMMオンラインサロン上で会員向けの記事の配信や勉強会を提供してきました。今年度からは本ホームページ上で多様なコンテンツを提供していきます。今年度の勉強会の日程に関してはこちらをご覧ください。

初回勉強会では、田村正勝先生の「社会科学方法論」を書籍化した『社会科学原論講義』の第17章「人間疎外の変遷と深化」を取り上げます(参加申し込みされた方には資料を配信します)。勉強会では、これまでの内容についても概要を説明しますので、途中からでも問題なくご参加いただけます。

RISSは難波田春夫・田村正勝の学問を象牙の塔に留めることなく、広く現代の経済や社会を真剣に考えたい方々すべてに開いていきたいと考えています。当日の会では、事前に読んで考えたことや感じた内容などを皆で共有し、意見交換しながら進めていきます。初回の司会進行は、臼井陽一郎先生(RISS理事、新潟国際情報大学教授)にご担当いただきます。

また、勉強会の終了後には、新しいRISSの活動についても簡単な説明会を開催します。希望者はその後、懇親会にもご参加いただいてより議論を深めることができます。多くの皆さまのご参加をお待ちしております。

RISS(社会科学総合研究機構)とは?

RISS(社会科学総合研究機構)とは

 「RISS(社会科学総合研究機構)」は、現代社会が直面している危機を、専門分化した社会科学の枠を超えて捉えなおすことを目的とした研究団体です。

 私たちは、政治学・経済学・社会学などの実証的研究を尊重しながらも、それらの背後にある「社会のあり方」や「人間の生き方」そのものを問い返す、哲学的な視点を重視しています。個別分野の知見を寄せ集めるのではなく、それらを貫く共通の問題を明らかにしながら現代社会を理解し、それを実践の基礎に据えること――それがRISSの基本的な立場です。

RISSの成り立ちと学問的背景

 RISSは、2020年5月1日に、早稲田大学社会科学部教授を長年務めた田村正勝と、その師・難波田春夫の学問を継承・発展させるために、その門下生を中心に設立された一般社団法人です。

 田村正勝と難波田春夫により展開された「社会哲学」は、専門分化した社会諸科学の限界を自覚しながら、哲学などの人文知を総合して現代社会の危機を根底から捉えなおす点に特徴があります。

 たしかに「学際的」な学問は、すでに多くの大学や研究者たちのあいだで研究が進められています。それらと比較すると、私たちの共通の土台とする「社会哲学」は、実証的な科学による多面的な考察だけではなく、取り上げる社会的課題の背後にある「意味」を考える、哲学的な考察を重視している点に特徴があります。

 たとえば、地球環境問題に対する科学的なアプローチは、政治学、経済学、法学、社会学、教育学その他、多様なアプローチがあります。それらのいずれもが重要な研究手法です。しかし、本団体では、そうした科学的なアプローチだけではなく、人間の理性的能力への過信や経済主義に対する反省をふまえた、「人間や社会に対するものの見方や考え方の変更」という哲学的な視座が必要不可欠だと考えています。

 もちろん、哲学といってもいろいろな考え方の違いがあります。そして、その考え方の違いが、たとえば自由主義と社会主義の違いのように、大きなイデオロギー対立を生み出してきた長い歴史があります。私たちの団体は、田村正勝や難波田春夫の思想や学問を「共通の参照軸」としています。しかし、両者の思想や学問を教条化することなく、両者への批判的考察も含めて、両者の思想や学問を発展させていきたいと考えています。

RISSの源流となる二人の学者

 両者の思想や学問に関しては、その詳細を明らかにしていくことが私たちの団体の目的のひとつです。そのため、ここでは以下、その導入となる両者の経歴を簡単にご紹介します。

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難波田春夫(1906-1991)

 まず、難波田春夫は、戦前に東京帝国大学助教授としてベストセラー『国家と経済』(全五巻、1938-1943年、日本評論社刊)を執筆し、自由主義的経済学ともマルクス主義的経済学とも異なる、独自の「日本経済学」を提唱した人物です。その学問の特徴は、日本経済が天皇を中心とした国民共同体に基づくものとする国家主義的思想であり、そのため敗戦後にGHQから公職追放を受けました。その後は、東洋大学や早稲田大学などで教鞭を取りながら、自身の思想を徹底して掘り下げ、やがて「自由と平等という相矛盾するものが実在の共同体において一致している」という、独自の立場(相互律)からの社会哲学を展開しました。

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田村正勝(1945-2025)

 つぎに田村正勝は、難波田春夫が早稲田大学社会科学部で教鞭をとっていたときにその下で学び、難波田の後任として同学部の看板講義「社会科学方法論」を約40年担当した人物です。田村は、難波田の学問と思想の骨格を継承しながらも、現代の市民社会を基礎づけるとともに、人間と自然の関係を問い直す学問へと、難波田の社会哲学を発展させました。
 したがって、難波田の国民共同体論と田村の市民社会論という両者の思想を学問的背景とする本団体は、その意味でも、何か特定のイデオロギーを掲げる団体ではありません。むしろ、現代のイデオロギー対立の根拠を明らかにし、それを超える新しい時代を具体的に構想することが、私たちの社会哲学の目標です。

 また、田村は「歴代内閣の経済指南番」とも呼ばれた木内信胤(1899-1993)にも寵愛され、木内が主宰した㈶世界経済調査会や、RISSの前身である㈳日本経済復興協会などで長年経済社会分析をおこない、一般向けにも社会や経済に関する正しい見方の普及につとめてきました。そうした功績が認められ、令和3年秋に瑞宝中綬章を受章しましたが、その学問的な業績の意味については、まさにRISSがこれから中心となって明らかにしていく必要があります。

RISSの現在の活動

 以上が二人の紹介となりますが、本団体は、この両者の業績をアーカイブして公開すると同時に、その学問の継承と発展を目的に活動しています。思想を保存するだけでなく、生きた思考として開き続けること――それがRISSの基本姿勢です。

難波田春夫(1938)「新しき経済の理念」

https://dl.ndl.go.jp/pid/1566487/1/13

※取り上げる論文は上のリンクから読むことができます(無料のアカウント登録が必要です)。

 難波田春夫、31歳、東京帝大助手時代に雑誌『新日本』(1巻8号、1938年8月)に寄稿した小論である。この『新日本』は、当時の文壇の国家主義を推進した「文芸懇話会」(1934年3月発足)を受け継いだ、「新日本文化の会」(1937年7月発足)が出版した雑誌だ。本誌の目次を見ると、萩原朔太郎、倉田百三、佐藤春夫、斎藤茂吉、保田與重郎、与謝野晶子など、日本文学界の錚々たる名前が並んでいる。難波田はこの後も『新日本』に複数回寄稿し、座談会にも出席しており、学術の世界だけでなく文学界にもその名を知られていた。

 出版当時の時代状況は、1931年に満州事変が勃発し、1935年から国体明徴運動(日本は天皇が統治しているという思想の拡散運動)が広がっていた。『新日本』もその流れのなかで発刊された。そして、本誌の前年の37年には文部省により『国体の本義』が3月に出版され、7月には盧溝橋事件で日中戦争が開始、翌38年4月には「国家総動員法」が公布されていた。難波田自身は、この年2月に『国家と経済 第一巻序説』、7月に『国家と経済 第二巻 古典に於ける国家と経済』を日本評論社から立て続けに出版し、世間がその名前に注目し始めていた。

『新日本』1938年8月号目次

 本稿は、このように戦前の『国家と経済』の第一巻と第二巻の直後に発表され、また翌39年に出版される第三巻(副題「我が国の古典に於ける国家と経済」)との間に位置する。そのため、非常に短い文章ではあるが、それまでの主張の要点が簡潔に述べられているという点で、難波田の初期の思想を把握するのに便利な記事である。

 そのポイントは、当時の自由主義的経済学とマルクス主義的経済学の双方を批判し、日本独自の経済学の必要性を明らかにしている点だ。難波田は、自由主義とマルクス主義の双方の経済学が、ともに「経済の必然性(自律性)」を解明できると考えていることを批判する。

 近代化以降、たしかに自由主義的経済学が説明するように経済は発展してきたが、同時に矛盾も深めてきた。その意味で現代の経済は危機である。しかし、現代の経済は、マルクス主義のいうようにただ必然的に崩壊し、新しい社会に移行するのではない。経済のありかたが変わるには、経済の必然を変容させうる国家の理念、すなわち「民族精神、具体的には日本精神」が必要だ(p.21)。計画経済は経済発展を抑圧する。したがって、「極端な自由経済」も「極端な計画経済」もともに問題があるとするならば、新しい経済は「適度な統制経済に向かはねばならない」(p.21)。

 以上が本稿の要旨である。その後、難波田は『国家と経済 第四巻 日本経済構造の原理的考察』(1941年)で、独自の日本経済学すなわち「家・郷土・国体」という国民共同体に基づく「国民経済三重構造論」を展開する。しかし、それ以前に難波田がここで「適度な統制経済」を主張している点が注目される。この「統制の範囲」(国家の介入の範囲)をどの程度まで許容するかという点が、その後、時代の変化とともに問題となる。そして、難波田のこの統制経済論に対する態度が、本誌から数年後の、大熊信行との論争や軍部の思想との違いとして表面化してゆく。

文責:廣重剛史

note記事「課題解決型学習の前に必要なこと──社会を見るための4層モデル」

RISS理事・廣重剛史による新しい記事を公開しました。
課題解決型学習(PBL)が広がる中で、「そもそも社会課題をどう認識するのか」という根本を問い直し、社会を4つの層から捉える視点を提示しています。
教育・社会課題・現象学に関心のある方におすすめの内容です。

👉 記事はこちら
『課題解決型学習の前に必要なこと──社会を見るための4層モデル』

田村正勝名誉会長のご逝去に際し、謹んで哀悼の意を表します。

先生は、早稲田大学教授として長年にわたり教育・研究に従事され、社会科学の発展に卓越した学問的貢献を成されました。名誉教授となられてからも、なお旺盛な知的探究心をもって研究と社会的発言を続けられ、理論と実践を架橋する社会科学の可能性を切り拓かれました。

また、本機構の前身である日本経済復興協会ならびに日本経済協会において理事長を長年務められ、日本経済の発展と社会的課題の解決に尽力されるなど、その社会活動の成果は誠に顕著であります。

これらのご功績により瑞宝中綬章を受章されるなど、先生の学術的・社会的貢献は広く高く評価されております。

ここに生前のご功績を偲び、深い敬意と感謝を捧げるとともに、先生の御霊のご安らかならんことを心よりお祈り申し上げます。

一般社団法人 社会科学研究機構
理事一同